
雛人形の歴史は古く平安初期。今から1000年も前に遡ります。源氏物語の中にも「ひいな遊び」と呼んで宮中の幼い姫たちの人形遊びが記されています。
三月三日あるいは三月上巳(最初の巳の日)にお祓いをした人形(紙や草で作った簡素な形代)を水に流して送ると、一年間無病息災でいられるという「流し雛」の風習がひな祭りの起こりと言われています。「上巳の節句(穢れ払い)」として雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」として祀られる様になりました。
3月の節句の祓に雛祭りを行うようになったのは、安土桃山時代の天正年間以降のことだと推測されています。
室町時代の末頃から始まった三月三日のひな祭りは、戦国時代を経て平和が訪れた江戸時代に華麗な女の子のための行事となっていきます。
寛永六年京都の御所で盛大なひな祭りがおこなわれたのをきっかけに、幕府や大奥でもひな祭りをおこなうようになり、やがて武士階級から町人へ、江戸から地方へと広まってゆきました。
江戸時代初期には形代の名残を残す立った形の「立雛」や、座った形の「坐り雛」(寛永雛)が作られていましたが、これらは男雛・女雛一対の内裏雛を飾るだけの物でした。
飾り物としての古の形式と、一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味合いが強くなり、
武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財の一つに数えられるようにもなり、自然と華美で贅沢なものになっていきました。
時代が下ると人形は精巧さを増し、十二単の装束を着せた「元禄雛」、大型の「享保雛」などが作られましたが、これらは金箔張りの屏風の前に内裏の人形を並べた立派なものでした。
享保年間からは、江戸幕府が倹約政策のとり、大型の雛人形が一時禁止されましたが、この規制を逆手に取り「芥子雛」と呼ばれる精巧を極めた小さな雛人形(わずか数センチの大きさ)が流行しました。
江戸時代後期には「有職雛」とよばれる宮中の雅びな平安装束を正確に再現したものが現れ、さらに今日の雛人形につながる「古今雛」が現れました。
また、18世紀の終わり頃から囃子人形が現れ、幕末までには官女・随身・仕丁などの添え人形が考案されました。
女の子が健やかに、そして可愛らしく育つように、病気や事故なく幸福な人生を過ごせるようにとの願いが込められてひな祭りの行事は連綿と今に伝わっています。

元々、雛人形は室内の一室に平面に各人形や道具類・調度類を並べて飾り楽しむ飾り方をされてきました。
そのため、この元々の平面で飾っていたものが、今で言うドールハウスのように、人形専用の御殿を作りそれを中心とした飾り方に変化していきます。
江戸末期から昭和の初めまで飾られていた「雛御殿」という建物を使った「御殿飾り雛」という飾り方をしているものが多くありました。
また、段飾りは一説によると箪笥の引き出しを階段状に整えて、そこに緋毛氈を敷き飾ったとも言われているますが、江戸時代頃から行われるようになり現在でもその形が引き継がれています。
さらにはお囃子に使う楽器や、雪洞(ぼんぼり)、牛車などの家財道具を一緒に飾ることもありました。
昭和時代を中心にな五段、七段が多く、昭和後期には八段の檀飾りも登場ましたが、以後昭和の後期から平成になると団地やマンションなど和室がなく七段飾りを飾るスペースがないなどの理由から、
本来の内裏雛のみ、または内裏雛と三人官女のみの簡素化されたセットが作られるようになった三段飾りが主流となっています。
収納に便利なように人形がしまわれている箱がそのまま飾り台として用いられるようになっている収納飾りも出てきました。
戦前までの上方・京都や関西の一部では天皇の御所を模した御殿式の屋形の中に男雛・女雛を飾り、
その前の階段や庭に三人官女や五人囃子らを並べ、横に鏡台や茶道具、重箱などの精巧なミニチュアなどを飾っていました。
祭りの日が終わった後も雛人形を片付けずにいると結婚が遅れるという話は昭和初期に作られた俗説ともされ、旧暦の場合、梅雨が間近であるため、早く片付けないと人形や絹製の細工物に虫喰いやカビが生えるから、というのが理由だとされています。
また、「おひな様は春の飾りもの。季節の節できちんと片付ける」など躾の意味からともいわれています。